それを手に入れた瞬間から、僕の人生は大きく変わり始めた。


何の変化もない日常は、当り前のように過ぎてゆく。
七条が、啓太と付き合い始めてから、約一ヶ月。
平穏無事な日々は、七条の感覚を、ゆっくりと麻痺させていった。
「七条さん、このケーキ、おいしいですね」
無邪気に笑う啓太に、七条は、柔らかい笑顔を返す。
いつものように。心の奥底から湧きあがってくる感情を、できるだけ抑えながら。
「伊藤くん」
七条が、そう呼ぶと、啓太は、素直に七条に向き直る。
何の疑いも持たないように、七条に笑顔を向ける啓太を見つめながら、七条は、
ゆっくりと眼鏡のブリッジに手をかけた。

不意に襲ってくる眩暈にも、もう慣れた。
この眼鏡をかけるときは、いつも急な眩暈が訪れるが、その後にやってくるのは、得も言われぬような開放感。
目の前にいる愛しい恋人を、大切にしたい。七条は、常にそう思っていたはずなのに、
それと同じぐらい大きな別の感情が、うごめき始める。

この眼鏡をかけるときに限って、その感情は、七条がコントロールできなくなるほど、大きくなる気がした。
七条が、啓太の顔に手をかける。うっとりとした瞳で七条を見上げている啓太は、どこまでも無防備だった。
七条の部屋。甘いケーキは、小道具にすぎない。
何をしてもいいですよね、伊藤くん。恋人の特権で、君を壊してしまっても、僕から離れたりしませんよね?


「七条さん……」

七条の顔をじっと見つめていた啓太が、急に口を開いた。
「何ですか?」
「あの……」
啓太の言いたいことなど、七条にはお見通しだったが、素知らぬ振りをして、七条は、啓太の言葉を
奪うように、啓太に唇を重ねる。

七条が、唇を離すと、大きく息をついた啓太が、七条を見返して、懸命に口を開いた。
「七条さん……。目、悪くなっちゃったんですか?」
七条の思い描いた通りの啓太の質問に、苦笑いをした七条は、啓太の耳元に口を寄せて、言葉を返す。
「いいえ」
「じゃあ、なんで眼鏡なんて……」
不思議そうに七条を見つめる啓太に、七条は、くすりと笑って、歌うように軽やかに言った。
「これはね、ラッキーアイテムなんですよ」
そう、これは、ただの眼鏡ではないのだ。
かけた瞬間から、世界が変わってしまう、極上の媚薬。
「あの……、七条さん……」
啓太が、七条から離れようとした。さすがに啓太も、七条のただならない雰囲気に気付いたのかもしれない。
「僕といるのは、退屈ですか?」
冷たく響く七条の言葉は、啓太を一層怯えさせる。
「いえ、そんな……ことは……」
口ごもった啓太の腕を、七条が捕らえた。いつもと違う、と啓太が思ったときには、啓太の腕は、
七条の手に強く握られ、動くことができない状態だった。
「退屈しないことを教えてあげますよ」
七条の眼鏡のフレームが、キラリと光る。啓太の怯えた目は、七条の感情を、一層大きくした。


七条は、啓太の腕をつかんだまま、テーブルの下に置いてあった小さな瓶を、もう片方の手に取り、
瓶に入っている液体を口に含み、そのまま啓太に口付けた。

無理矢理、液体を啓太の口へ送り込む。苦しそうにしながら、その液体を飲み下した啓太の目は、
もう、七条を優しい恋人として見ていなかった。

「さあ、始まりです。君のためだけの時間が」
「七条さん……」
「臣、でしょう?啓太くん」
冷たく笑った七条は、啓太の腕をつかんだ手に力を込めて、啓太に言い聞かせるように、そう言った。
「七条さん……。さっきの液体……」
目に涙を浮かべながら、必死に口を開く啓太は、今の七条にとっては、この上なく魅力的に見えていた。
「すぐに効いてきますよ。感じやすい君を、もっと感じやすくしてくれる素敵な媚薬です」
七条の冷酷な言葉が、啓太に突きつけられる。
さっきよりも熱くなってきた気がする身体を持て余しながら、啓太は、七条に言葉を返した。


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