「小夜時雨」
君を後ろからしか抱きしめられない僕は、誰よりも卑怯で、本当は君のそばにいられる資格などないのかもしれない。
それでも君を失いたくなくて、今も君の優しさを利用している。
伊藤くんに「うっとりするほど美しい」という意味を持つ茶器が似合うと言ったのは、嘘でもお世辞でもなく、本当のことだ。
君は、とても強くて、美しい心を持っているから。そういうところは、郁に似ているのかもしれない。
でも、僕は、伊藤くんに恋をした。郁ではなく、伊藤くん、君に。
時折降っては止んでいた雨が、暗闇の中で、さらさらと音を立て始めていた。
窓の外にかすかに見える小さな雨粒が、深まる秋の空気を一層冷たくするように舞っている。
会計室を出ていく郁を見送った後、僕は伊藤くんを引き留めた。
「また明日」と言った伊藤くんに無意識に手を伸ばし、後ろから抱きしめた。
「伊藤くん」
名前を呼んだその後は、言葉にならなかった。行かないでください、と言えば行かないでいてくれるのだろう。
優しい君を、そんな言葉一つで縛りつけるのが怖くて、何も言えない。君に対するときは、いつも必要以上に臆病になる。
「七条さん…あの…」
とっさに、伊藤くんを抱きしめていた腕をゆるめた。君の嫌がることはしたくないと思っているのに、手を離しきれなかった。
そんな僕の矛盾を察したかのように、伊藤くんはゆっくり口を開く。
「もう少し、このまま…」
消え入るような声だった。そうやって、君はまた僕を甘やかす。誰よりも純粋な君。
窓の外に映る冷たい闇のような僕の心に、やわらかい光を注いでくれる人。
僕は、力を込めすぎて君を壊さないように、もう一度君をゆっくり引き寄せる。
伊藤くんの柔らかい髪が頬に当たる感覚が心地良くて、うっとりと目を閉じた。
外に振り続く雨音が、優しく耳を通り抜けていく気がした。
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