「花に、日を当ててやって欲しい」
西園寺から渡された合鍵が、無機質に冷たく感じる。
「あの……水は……
おずおずと啓太が問いかけると、鍵と同じくらい無機質な表情で、西園寺が口を開いた。
「水は、やらなくていい。日が出ている間、窓際に置いて日の光を当ててくれ」
朝、窓際に鉢植えを置き、夕方の日が落ちる頃に、窓から移動させ、カーテンを閉める。
西園寺から啓太に与えられた仕事は、それだけだった。
「わかりました……」
期間は、1週間。その最終日を待たずに、214日が訪れる。
「お気をつけて」
西園寺は、私室に他人を入れたがらなかった。
そんな部屋の鍵を渡されたことは、啓太にとって嬉しいことだったのに、啓太は顔を曇らせ、わざと他人行儀な口ぶりで西園寺を送り出そうする。
「ああ」
そう一言残して、部屋を出て行く西園寺の後ろ姿に、啓太は何も言えず、その場に立ち尽くしていた。


年度末の近い2月は、何かと忙しい。
学園の会計としての仕事をこなさなくてはならない上に、本家の代表としての務めも少なくない西園寺は、この部屋を空けることが多くなっていた。
西園寺のいない日々が1日、2日と過ぎてゆくごとに、部屋の寒さが増す気がする。
啓太は、冷たい空気に息をつくと、鉢植えを部屋の中央にあるテーブルに移動し、カーテンに手をかけた。
日が傾き始めたばかりだというのに、もうカーテンは冷えきっている。
啓太は、鉢植えを心配しながら、窓の外に目をやると、ちらちらと粉雪が舞っているのが見えた。
西園寺が生まれた日も、白い雪が降っていたらしいと西園寺が教えてくれたのを思い出す。
あと数日。たった数日のことなのに、急に胸を締め付けられるような寂しさが、啓太の心に流れ込んできて、啓太は窓から目を離して、うつむいた。
西園寺が生まれたことをお祝いしたい。たった一言、そう伝えれば良かった。
思うこととは真逆に、啓太は何度も携帯を取り出しては、何もせずに閉じている。
そして、啓太の後悔を待ってはくれず、西園寺の誕生日は明日に迫っていた。


変わらない朝だった。
真冬の光景らしく、冷えた空気に眩しい日が注いでいる。
好きな人が生まれてきたことを、一人感謝していられるように、啓太が、できるだけ平静に心を保とうと深呼吸すると、吐いた息が白く染まっていた。

外に目をやると、昨晩の雪が、うっすらと地面を覆っている。
このまま寮に一日いても、打ち沈むばかりに思えた啓太は、思い切って外に出掛けようと西園寺の部屋を後にした。


休日の街は、想像以上に賑やかだった。
バレンタインの当日だというのに、チョコレートが飛ぶように売れる様を眺めるのは、いい気晴らしになる。
どのチョコレートも美味しそうに見える甘党の啓太は、鮮やかに彩られたショーケースに目をやった。
可愛らしくデコレーションされたチョコレートの中に、ぽつんと置かれた黒い箱に入っているのは、ビターチョコレートらしい。
「これなら西園寺さんも食べてくれるかも」
本当は、自分で食べるチョコレートを買うはずだった。
それなのに、手に取ったのは自分が好きな甘いチョコレートではないなんて、おかしな話だ、と啓太は自分に苦笑いをする。
綺麗に包まれたチョコレートを持ち帰る啓太の足取りは、行きの道のりよりもずっと重かった。


夕刻、啓太は、いつものように西園寺の部屋を訪れた。
早く用事を済ませてしまいたくて、着替えもせずに西園寺の部屋に入った啓太は、鉢植えに手をかけ溜め息をつく。
啓太が、コトリと鉢植えをテーブルに置いたその瞬間だった。
不意に西園寺の部屋のドアが開かれる。そこに立っていたのは、啓太が待ち焦がれていた西園寺だった。
「ありがとう、啓太」
笑ってそう言った西園寺を、啓太が不思議そうに眺めている。
「西園寺さん……今日は……
まだ帰ってくる日じゃなかったですよね、と啓太が口を開く前に、西園寺が啓太の身体を抱きよせた。
「なんだ、お前も出掛けていたのか。身体が冷たいな」
啓太は、西園寺の顔を見ずに、黙って西園寺に身体を寄せている。
「すまなかった、一人にして」
西園寺の囁くような小さな声が、啓太の胸に響いた。じんわりと伝わってくる西園寺の体温の心地よさに身を任せながら、啓太はそっと目を閉じる。
「明日の朝、ここを出なければならないが、今日ぐらいは……お前と一緒にいても罰は当たらないだろう」
笑いを含んだ西園寺の言葉が、素直に嬉しかった。
啓太は笑顔を取り戻し、西園寺に向き直る。
「あの……これ……」
手にしたままだったチョコレートの袋を、啓太は思わず手渡そうとした。
甘いものは好まない、と言われると分かっていながら、そうせずにはいられなかったのは、大切な日を西園寺と過ごせる嬉しさだったのだろう、と啓太は一人納得する。
「気持ちだけ受け取っておこう。これは、お前が食べればいい」
その方が私も嬉しい、と幸せそうに言った西園寺の笑顔が眩しかった。
啓太は、そっと包みを開けたが、そのままぼんやりとチョコレートを眺めている。
「どうした? 食べないのか?」
「これ、食べ……
食べませんか、と言うつもりだった。それなのに、啓太の言葉の終りを待たずに西園寺が口を開く。
「食べさせて欲しい? 甘えるな!」
西園寺の語調はきつかったが、意外なほど表情は柔らかかった。
そんなつもりじゃなくて、と啓太が言い訳をしようとすると、西園寺は啓太が持っていた箱からチョコレートを取り出し、啓太の口元に寄せる。
「馬鹿だな」
啓太の耳元で囁いた西園寺が、啓太の口にチョコレートを落とした。
甘さを抑えたほろ苦いチョコレートが、西園寺そのもののように思えて、啓太は思わず笑みをこぼす。
勝手に出て行き、突然戻ってきて、勝手に自分の言葉を勘違いする西園寺に、啓太はずっと振り回されっぱなしだった。
でも、今この時が、あり得ないくらい幸せに思えるのは、西園寺がここにいてくれることに他ならない。
「何を笑っている?」
「やっぱり俺、西園寺さんが好きなんだなぁ、って思って」
啓太の言葉に、小さく笑った西園寺が、啓太の次の言葉を封じるように唇を重ねた。
窓の外には、また粉雪が舞い始めていた。