「啓太、おはよう」
 聞き慣れた低い声が、啓太の耳に柔らかく響く。
「もう、朝だぞ」
 恋人に起こされて目覚めることが、こんな心地良いものだなんて知らなかった。啓太は、緩む頬を押さえつつ、もう少しこの時間を楽しんでいたくて、わざと布団を被り直す。
「仕方のないやつだな」
 つぶやくようにそう言った声の主が、布団を少しめくって、啓太の頬にキスを落とした。
「啓太……」
 耳元へのささやきが、啓太の胸を甘く踊らせる。息がかかるほど近い位置で、のしかかられている状態なのに、啓太はその重さを全く感じていなかった。これも恋の成せる業なのかもしれない。
「今日は、お前の誕生日だろう?」
 覚えていてくれたんだ。啓太は、くちづけられた頬に指を当て、幸せそうに笑う。
「大切な啓太の誕生日だから、何でもしてやるよ。啓太……、何をして欲しい? 今日は、お前のために一日中……」
 大切な啓太。そんなことを言われる日が来るなんて、信じられない。誕生日だからといって、特に何をしてくれると思っていなかった啓太は、今日もいつも通りに時を過ごすものだと思っていた。
 何をしてもらおう? どこかへ連れて行ってもらおうか? それとも……。
「中嶋さん……俺……」
 啓太が、大好きなその人の名前を呼んだ瞬間だった。啓太の視界から、ふっと中嶋の姿が消える。
「え……? 中嶋さんっ? 中嶋さんっ?!」
「どうしたんだい、啓太? 俺は、ここにいるよ。お前のそばにずっと……」
 啓太の視界に、ぼんやりと浮んだ中嶋が、優しい声でそうつぶやいた。
 幸せな時間を信じていたかった啓太の心に、じわじわと違和感が広がる。
 どこまでも優しい言葉を返す中嶋の姿が、再びはっきり浮かび上がった。中嶋の優しい笑顔は、確かに啓太が望んでいたものなのに、今は恐怖さえ感じてしまう。
「中嶋さん……じゃない?」
「何を言ってるんだ、啓太。俺の顔を忘れてしまったのか? 俺は、中嶋英明だよ。お前のことを、世界で一番愛している恋人じゃないか」
「ち……がう……」
 わなわなと震えた啓太は、恐怖を振り払うように力一杯叫ぶ。
「中嶋さんじゃないっ!」
 すると、表情を歪めて笑った中嶋が、啓太に冷たく言葉を返した。
「良く気付いたな。お前の中嶋への愛情は、褒めてやるよ」
「お前は、誰だ?! 中嶋さんは、どうしたんだっ?!」
「中嶋、ね。まぁ、今頃は……」
 その言葉に、ゾクリと背筋が冷たくなる。啓太は、泣き叫ぶように中嶋の名を呼び続けた。
「中嶋さんっ。もう、俺、何もいらないから。だから、そばにいて……中嶋さん……」



 啓太が涙を流した瞬間、視界が明るくなった。
 のろのろと身体を起こして周りを見渡すと、確かに中嶋の部屋なのだが、当の中嶋が見当たらない。
「夢……?」
 夢であることを願いつつ啓太は、慌てて中嶋を探した。ベランダに見つけた人影は、中嶋のようだったが、あの夢の後では疑い深くもなってしまう。
「中嶋さん?」
 啓太の声に振り返った中嶋は、表情を崩さないまま、啓太を一瞥した。
「やっと起きたのか」
 冷たい中嶋の言葉に、つい啓太は頬を緩めてしまう。
「良かった。中嶋さんなんですよね!」
 ニコニコと笑っている啓太に、大きく溜め息をついた中嶋は、啓太を突き放すように口を開いた。
「勝手に部屋に上がり込んできて、勝手に寝入って、言いたいことはそれだけか? 俺が信じられないというなら、さっさと出て行け」
「し、信じてますっ。俺は、中嶋さんじゃないって分かったんですからっ!」
「お前の話は、理解できん」
「でも、俺……」
 本当は、夢の経緯を話したかったが、ここで何を言っても中嶋を怒らせてしまうだろう。啓太は、ひとまず中嶋の部屋を出て落ち着こうと、言葉を止め、中嶋に背を向ける。
「啓太」
 中嶋に、急に呼び止められ、啓太がぴたりと足を止めた。
 これはもしかして、誕生日の話ではないだろうか。啓太は、期待通りの展開に顔を輝かせる。
「今日は、お前の誕生日だろう?」
 そうそう。そして、「大切な啓太の……」って続いて……って、それじゃ夢と同じじゃないか!
 啓太は、悪夢を振り払うように、ぶんぶんと首を振った。
「なんだ、誕生日じゃないのか」
「いえ、違います。誕生日ですっ!」
 せっかくの機会を逃してはなるまいと、啓太も必死になる。
「何もいらないんだよな?」
「い、いりますっ!」
「さっき、何もいらないと言っただろう?」
 どうやら、悪夢の最後に叫んだ言葉を中嶋に聞かれてしまったようだ。啓太は、慌てて中嶋に言葉を返す。
「あれは、悪い夢を見ちゃったからです。中嶋さんの偽者が出てきて、中嶋さんがいなくなっちゃって。だから、俺、中嶋さんを返して欲しくて……」
「俺は、ここにいるが?」
 中嶋は、意地悪く笑っていた。これは、お仕置きの流れだな、と密かに覚悟を決めた啓太は、どうせお仕置きされるなら、と中嶋に手を伸ばす。
「今日は、俺の誕生日です。だから……、だから、中嶋さん。今日は、そばに……いて下さい」
 一年に一度だけの、ワガママを言いたい日。言わせてくれるかどうかは、ともかくとして。
「贅沢な願いだな」
 確かに贅沢かもなぁ、と中嶋の言葉に納得しつつ、啓太は中嶋の背中に手をまわす。確かに感じる中嶋の体温は、これが現実なのだと証明してくれる。
 きっと夢の中の優しい中嶋も、啓太の願望なのだろうけど、やっぱり現実の中嶋がいい、と改めて思った啓太は、中嶋の胸の温かさに今年一番の幸せを感じていた。

               寝起きの啓太は、こんな感じだったんじゃないかと。(イラストへ)