「星明かり」 5
僕は、君の雨をしのぐ、傘になりたかったのかもしれない。
そんな願望は、多分、もう叶うことはないだろうけれど。
せめて、この雨に濡れないように。七条が、そう願って啓太に渡した傘を、
啓太は、素直に開いて、足早に寮へ帰って行った。
雨は、まだ、弱まることなく振り続いている。
寮に帰る道を歩いていた啓太は、七条の傘を差しながら、沈んだままの心を持て余していた。
どんどん、七条が遠くなる。接すれば、接するほどに。
啓太は、「まだ仕事が残っているから」と傘を渡してくれた七条が、一瞬だけ見せた
悲しそうな表情を思い出しては、持ち主を離れてしまった傘に、自分の気持ちを重ねていた。
この雨の中、傘も差さずに帰ることになるであろう七条を思って、啓太は、学園へ戻る道を
思わず振り返る。
「ああ、伊藤くん、ちょうど良かった。傘に入れていただけませんか?」
そんな風に言って、当り前のように傘に入ってくれる七条を想像してみても、
啓太が来た道には、降り続いた雨が、水たまりを大きくしている様子が見えるばかりだった。
寮に帰り着いた啓太は、玄関先で、傘についた雨粒を振り払い、降り続く雨に目をやった。
早く止めばいいのに。祈るように、啓太は、空を見上げている。
啓太を見つけた和希が、声をかけてきても、啓太は、悲しそうな顔のまま、七条の傘に
目線を落とすばかりだった。
「どうした?元気ないな。何かあった?」
優しく話しかけてくれる和希に、申し訳なく思いながらも、啓太は、作り笑いを
浮かべることすらできずに、ただ首を横に振っていた。
「啓太、その傘……」
啓太が持つ傘が、啓太のものではないことに気付いた和希が、思わずそう言うと、
啓太は、和希の言葉を遮るように、濡れたままの七条の傘を抱きかかえ、そのまま
自分の部屋へと走り去ってしまった。
大きな傘。背の高い七条が持つ傘は、啓太には、少し大きく感じられた。
貼られた布は、黒く艶やかで、七条を思わせるようだった。
傘に残った水滴を、丁寧に拭き取り、啓太は、もう一度、七条の傘に目を向ける。
これを返してしまったら、もう、七条と接することができなくなるような気がする。
同じ学園にいて、同じ寮にいるのだから、そんなはずはないのに、
そう思えてしまうことが、啓太にとって、何よりも悲しかった。
どれくらいの時間、思い悩んだだろう。
啓太は、夕飯にも顔を出さず、部屋で七条の傘を眺めていたが、
急に、大きくて立派な傘が、自分にふさわしくないように思えて、持ち主に
返しに行く決心をしたようだった。
啓太が、七条の部屋のドアをノックすると、すでに帰って来ていた七条が
すぐに出てきて、啓太を見て、優しく笑った。
優しく、でも、幾分かの、悲しみをたたえているようにも見える笑顔だった。
啓太は、七条に何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこなくて、
「これ……」と言っただけで、七条に傘を渡そうとしていた。
「濡れませんでしたか?」
穏やかにそう問いかける七条に、啓太は、胸を痛ませながら、言葉を返す。
「大丈夫でした。ありがとうございました。でも、七条さんは……」
そう言って、七条を見上げた啓太は、七条の髪の先に、小さい水滴を見つけた。
それは、濡れて帰って来たであろう七条が、髪を乾かしきれなかった名残のようだった。
啓太は、背伸びをして、七条の髪についた水滴を取ろうと、手を伸ばす。
啓太の指が、七条の髪に触れた瞬間、七条の手が啓太の手を、振り払った。
ほんの一瞬の出来事だった。
七条は、自分が何をしたか、咄嗟に理解できなかった。
手を振り払われた瞬間の、啓太の絶望に似た深い悲しみを知った表情が、七条の目に入って、
七条は、初めて自分のしてしまったことの大きさを理解する。
「ごめんなさい」と言って、走り去る啓太を追うこともできず、七条は、その場にただ立ちすくんでいた。
こうして、またひとつ、僕は、君を失う。
君を失うことに、感情を持たないと、心に決めたはずなのに。
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